プラトンのテクストを読むことについて、19世紀以降の先行する方法論を批判的に継承し、従来の対話篇解釈の革新を狙う。具体的には、第一に、テクストの事実を無視したり、あるいは、近代文献学者の校訂によるテキストを鵜呑みにしたりする態度への警鐘として、文献学的な本文批判を出発点とする。第二に、文芸批評理論の成果を批判的に援用し、従来、研究者達が「プラトンの哲学」を語りたいが為に、対話形式を論考または独白体形式の講話に転換可能としてきた前提を斥ける。第三に、対話を文学的に描く事とは、対話という相互作用を描出する事であるとの前提に立ち、ふさわしい分析法として、語用論的な対話分析の方法を導入する。これらの方法論的前梯作業の意図する所は、対話篇という文学的形式の選択は、理論的にも歴史的にも、作者プラトンの文学的に負う責任が対話の描写以外にないとする立場の表明である。この事は、プラトンが歴史的登場人物を配した事を論外におく「哲学的研究論文」に対して、対話篇が、歴史的な背景を持ち、対話者の相互作用たる対話を描く劇として、部分ならぬ全体の対話分析が先ず第一に求められる作品群であることを標榜する事でもある。本論は、この方法論的確認の実効性を示すために、従来、プラトンの思想的発展を研究する立場からは立ち入って取り上げられる事のなかった『ヒッピアス(小)』に関し、アリストテレスから始まる先行の諸研究が行ったテクスト理解と対照しながら、部分に留まらず、全体に関わり、細部を分析し、作品の全体像を提示するものである。