19 世紀末のアメリカは、中国市場のみならず中国「近代化」への参画をも目標に掲げ、東アジアに進出した。だがその目標は、清朝が弱体化し、列強が半植民地化を進める当時の中国では、実現する見込みは薄かった。そこでアメリカは、門戸開放政策を列強に表明した。
この政策は、ハードパワーの裏付けを持たなかった。ゆえにセオドア・ローズヴェルトは、中国でモンロードクトリンを執行するアメリカの代行国を求め、日本を見出した。日本が、アメリカと「偉大なる和解」を進めるイギリスとの同盟を銃後に、門戸開放政策への国際的合意に違反するロシアと戦っているとみたからである。
日露戦後、日本の海軍力が東アジアで突出し、かつ、アメリカ西海岸での排日運動が外交上の争点となる。ローズヴェルトは日米間の「文明の衝突」を予感し、日本に中国「近代化」を主導させることは望ましくないと判断するに至る。その結果彼は、日米協調によって東アジア国際秩序を安定させつつ、アメリカのソフトパワーの影響下で中国自身が「近代化」の主体となることを期待したのである。
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